「非実在青少年」を再考する

少し前に非実在青少年についてここでもとりあげたが、今一度そのことについて考えてみたい。
以前は、これは単なる表現の自由を弾圧するだけのもの、みたいな印象が強かったが(実際そんな改正案だったというのもあるが…)本来の目的は「青少年性的視覚描写物をまん延させることにより青少年をみだりに性的対象として扱う風潮を助長すべきでないこと」とある。要は青少年に対する性犯罪の原因は青少年性的視覚描写物のまん延ではないのか、と東京都は考えていたのである。
しかし、性行為そのものは悪ではない。むしろ人間という種の存続のために不可欠なことである。ある意味、人間にして人間を否定しているのではないか、とさえ思う。それに、いわゆる性犯罪者は社会復帰しても再び性犯罪を犯す確率もそれなりにあるのだから、効果があがるのか、というとあまり期待できないのではないか。
さらに深刻なのは、とくに青少年に対する性教育がないがしろにされるのではないかという点である。条例案の可決により「性行為=×」なイメージが増え性教育の機会が減ってしまうのではないか。性教育というのはためらいがあるかもしれないが、そのような教育がなされないことによってその青少年らが社会に出て性犯罪を起こすということにはならないだろうか。


そもそも、実現不可能なことを表現するひとつの手段として、マンガという文化が存在するのだから、これってマンガの存在そのものも否定することになるのでは、と思ったんだが…


確かに、性犯罪を減らすという考えそのものは正しい。しかしどのような方法が本当に良いのかは誰もわからない。誰もが納得のいくような方法となると非常に難しいものがあるが、少なくとも現行の案では賛成しかねる。


また、この問題はまだ終わった訳ではない。6月の都議会でもこのことは論点に挙がるだろう。石原都知事は「色んな人の意見も聞き、誤解も解くことで、きちっとした条例に収れんされていくことが好ましい」とは言っているようだが…?
あるいは、以前あったような人権保護法案みたいな法案も知られるまでに時間があった。私たちはもっと一市民としてもっと積極的に政治参加しろ、ということなのかもしれない。自分の市町村の議会でも、一度みてみるといい。場所によってはくだらんことを議論して普通のサラリーマンより楽してはるかに高い収入を得ている議員もいるのだから。